マイントピア別子(愛媛県新居浜市)
マイン(採掘)とユートピア(桃源郷)を組み合わせたその名前の通り、別子銅山をテーマとした学習と憩いの施設。
実際に1972年(昭和47年)まで操業していた、別子銅山の採鉱本部跡を活用した施設となっています。
そしてその施設は2ヶ所あり、市街地に近く道の駅にもなっている前述の端出場(はでば)ゾーンに加え、
1915年(大正5年)~1930年(昭和5年)まで採鉱本部が置かれ、鉱石輸送の要衝であった山上の街、
東平(とうなる)ゾーンに分かれています。
「東洋のマチュピチュ」として有名な石積みの貯鉱庫が残るのは、こちらの東平(とうなる)ゾーンの方になります。
みなさんこんにちは! しおかぜHobby のお時間です。
通常、これら2拠点間はマイクロバスによる連絡が行われている他、自家用車で向かう事も出来るんですが、
徒歩で行ける「道」があるのをご存知でしょうか?
「そりゃ、その車道を歩いて行けば行けるでしょうよ!当然じゃん!!」
と仰る声が聞こえてきそうですが、そうではありません。
明治期に整備された東平(とうなる)~端出場(はでば)を結ぶ主要道路。
100年以上の時を超えた令和の現代に、それは残っています。
ひょんなことから徒歩で東平に向かうことになったおっさん2人の珍道中、
お楽しみください。
2023年4月1日
東平ゾーンへの通行路となる市道「河又~東平線」の通行止めは
解除されました!!
2022年3月19日から、
東平ゾーンへの通行路となる市道「河又~東平線」は
落石の影響により通行止めとなっており、車で向かうことが出来ません。
そのため、東平ゾーンは臨時休業中です。
(執筆時2022年7月下旬も継続中。詳細はこちら)
つまり、この記事で紹介する明治期の生活道路が唯一のアクセス方法になります。
愛媛県新居浜市
言わずと知れた日本を代表する巨大企業、住友グループの企業城下町である。
愛媛県、いや四国を代表する工業都市となった新居浜市だが、
その源流は南へ直線距離で10数km、西赤石山系の南斜面、「旧別子」地区で1690年(元禄3年)に銅鉱石の露頭が見つかったことに始まる。
これを採掘、販売を一手に担った「泉屋」こそが後の住友グループの起源の一つなのだ。
そして別子銅山、住友グループとともに発展してきたのが工都、新居浜市だ。
別子鉱山鉄道 上部線
2016年3月
筆者は前述の西赤石山系、その北斜面に居た。
別子銅山で産出される銅鉱石を海沿いの精錬所まで輸送するために建設された、日本初の本格山岳鉄道、別子鉱山鉄道上部線を探訪するためである。
標高1,100mの角石原(かどいしはら)停車場から850mの石ヶ山丈(いしがさんじょう)停車場まで全長約5.5km。
開業は1893年(明治26年)と古く、その役目を終える1911年(明治44年)までの18年間、別子山中の断崖絶壁を駆け抜けた、
廃線界(?)では伝説的とも言える路線である。
通常、これだけ古い廃線跡は残ることがない。
廃線になってから100年をゆうに超えるにも関わらず、
- 都市開発される場所でないこと。
- 簡単に踏み入れることが出来ず、人に荒らされる場所でないこと。
- 別子銅山の高度な土木技術
の3要素が揃ったことにより、現代でも多くの遺構が残っているのである。
そこに、なんと1人で向かっていた。
熊よけの鈴を付けることもなく、拍手で自分をアピールしながらの単独行。
たまに現れる岩の影を、「やば。熊!?」とビビりながら、拾った枝(すぐに折れる)を武器に前進していた。
今考えれば、危険極まりない行動と言えるだろう。
その急峻な地形からして一歩踏み外せば命に関わる場所もあるし、野生動物に対峙した場合の不安も大いにある。
足を痛めて歩けなくなれば、“帰れなくなる=遭難” と隣り合わせだ。
しかし当時の筆者にとっては、2000年頃から長年憧れ続けたものの、とても自力で行けるとは思っていなかった言わば聖地に、
近年、山を登る機会が増え、ある程度の経験と体力が蓄積されたことで「行ける!」と判断、実行に移したという経緯があった。
それ程までに “廃線への情熱に溢れていた” ということでもあるのだろう。
この時は、マイントピア別子(東平地区)まで車で行き、
第三通洞前から柳谷コースで角石原停車場へ。
そこから中間駅である一本松停車場までをトレース。
そこから第三通洞前まで戻るコースとなった。
つまり、上部鉄道跡の約半分を制覇していた。
全線制覇へ
それから6年の時が流れた2022年3月、全線制覇にチャレンジすることになった。
今回は単独行ではない。親友のY氏をバディとして、である。
Y氏が興味を示したこと、筆者本人も残り半分のことがずっと気になっていたことから、3月下旬に決行することとなった。
今回のコースは
マイントピア別子(東平地区)まで車で行き、
第三通洞前から馬の背コースで角石原停車場へ。
そこから終点の石ヶ山丈停車場まで全線をトレース。
中間駅である一本松停車場まで戻り、
そこから第三通洞前まで戻るコースとしている。
先人たちの情報によると全行程約6時間とのことだった。
急展開
6年越しの決着に心躍らせていた決行前日、Y氏から連絡が入る。
「落石で通行止めになってるって。どうする?延期にする?」
マジで!?どうしよう。。
もう有休出しちゃってるし。てか、もう明日仕事行く気なんて無いよ。
ここで筆者があることを思い出す。
確か、徒歩で東平まで行ける道が残ってたはず。
かの有名な遠登志橋(おとしばし)を渡る、かつての「道路」が。
歩いて登ってみない?
(会社行きたくないし。)
意地でも会社を休むつもりらしい。こんな時だけは意思が固いものだ(笑)
ここまで「廃線」を楽しみに読んでくださっていたレアな読者さまには大変申し訳ないが、
急遽の路線変更をご容赦願いたい。
決行
まだ暗闇の早朝、自宅を出発。途中でバディY氏を拾う。
高速道路を飛ばし、目指すは今回の起点、マイントピア別子 端出場ゾーンだ。
午前8時到着。
簡単な朝食と準備を済ませ、いよいよ出発である。
8:30
まずはマイントピア別子の玄関口、端出場大橋を渡り、県道47号、新居浜別子山線(通称別子ライン)を歩く。
右手にマイントピア別子を眺めながら、歩道が整備されていない区間を慎重に進む。
見通しの悪いカーブではさらに注意が必要だ。
旧端出場水力発電所
8:35
5分程歩くと、右下にレンガ造りの立派な建物が見えてくる。
これが最初の見どころ「旧端出場水力発電所」である。
1912年(明治45年)竣工。
歴史の重みを感じずにはいられない。
閉山間際の1970年(昭和45年)まで現役で稼働していたというのだから驚きだ。
そして山側を振り返ると…
その落差597m、東洋一と謳われた水圧鉄管の設置台が一列に並ぶのがわかる。
それと並行する点検用の階段も健在だ。
これを辿っていけば、石ヶ山丈(いしがさんじょう)停車場近くの貯水槽まで行けるのだろう。
詳しくは、新居浜市作成のYouTubeをご覧いただきたい。
現在は一般公開へ向けて準備工事が進んでいる。
いくらでも見ていられるが、行程は長い。
先を急ごう。
ダブルヘアピン
ここから見下ろす四通橋(よんつうきょう。第四通洞前に架かるトラス橋)もまた格別だ。
第四通洞の上を通過して歩くこと7分。
正面に、何やら巨大なループ状の建造物が見えてくる。
青龍橋(せいりゅうはし)。
鹿森ダムまでの高低差を一気に駆け上がる、2010年開通のループ橋である。
近づくにつれ、その大きさに圧倒される。
地震大国でありながら、数々の建造物を構築していく日本の土木技術の高さを間近に感じながら歩を進める。
しかし我々が歩くのは、その旧道。
写真左に伸びる、極細い方がそれ。
旧道も筆者が愛好するものの1つだ。
かつては主要道路として地域発展のため活躍したものの、
時代の流れとともにその役割を新道に譲り、その余生を静かに過ごしている。
そこにかつての隆盛を想像する時、得も言われぬ浪漫を感じるのである。
大型車では離合困難なかつての道は、2連続ヘアピンカーブで高度を稼いでいた。
最初のヘアピンの半分はなんとトンネル内だ。
トンネル内部でも急カーブは続いている。
若かりし頃、車で走った記憶がよみがえる。
「懐かしいなぁ!」
「こんなに曲がってたんだね…」
歩いて通るトンネルはちょっと怖い。自然と口数も増える。
第2ヘアピンを抜けると右手に青龍橋が並走してくる。
ちょうどスイフトスポーツが猛スピードで駆け抜けていった。
(良い音だ。)
そしてまたトンネル。
「え!?こんなに狭かったっけ!?」
中での離合は不可能だろう。
トンネルを出たところで現道と合流。
今回お目当ての「道」への入り口、遠登志渓谷遊歩道は目の前だ。
遠登志渓谷遊歩道
9:00
おとしけいこくゆうほどう
30分程ともに歩いた県道47号と別れ、遊歩道の入り口に立つ。
30kgもの粗銅(あらどう)を担いだ仲持ちさんの銅像が出迎えてくれる。
男性なら45kgを運んでいたというから驚きだ。
かつて銅山で働いた方々の健脚具合は尋常ではない。
日々の鍛錬の賜物なのだろう。
まずは綺麗に舗装されている遊歩道を歩く。
旧遠登志橋
小女郎川沿いに200mほど進む。
すると木々の間から鋼製の赤いアーチ橋が見えてくる。
これこそが、登録有形文化財(2005年 登録)の
旧遠登志橋である。
1905年(明治38年)竣工。全長48.25m。
今回我々が向かう東平地区、更にはその先、銅山越を経て別子山村へ行く生活道路として建設された。
また、硫化銅などの重金属を含む坑内排水が小女郎川に混入するのを防ぐため、坑水路も併設されていた。
老朽化のため、現在ではつり橋で補強されており、橋脚のアーチ部分のみが往時の姿を残している。
今回の行程のうち、最初にして最大の遺構だ。
(と、この時は思っていた)
道
いよいよ、ここからが今回のお目当て、明治期に整備された生活道路である。
入道して2分、早くも洗礼を受ける。
9:18
倒木が道をふさいでいるのだ。
(え!?何これ。)
(こんな調子で、ずっと荒れ放題だったらどうしよう)
慎重に乗り越えながら考える。
9:26
しかし最初に威嚇してきた「道」は、その後は比較的優しく我々を迎えてくれた。
新居浜市によってきちんと整備されており、迷う心配もなさそうだ。
9:39
ここにも小さな道しるべ。
両方とも「東平を経て銅山峰へ」と書かれているが、
画面右側を指す方には「まわり道」、画面左側、一段高い道を指す方には「近道」と書かれている。
我々は階段等で一気に登る「近道」を進んだ。
これら2本の道は、この後何度も交差するのだが、
とあるブログによると「まわり道」の方は、牛車道だと紹介されていた。
牛車道とは、1880年(明治13年)に開通した、旧別子から銅山越を経て新居浜へ至る総延長39kmの道路のこと。
前述の仲持ちさんに代わり、その名の通り、牛が曳く荷車に粗銅(あらどう)を積んで運ぶための車道である。
確かにその傾斜からはそのように見えるのだが、牛車道のルートは遥か東方を通っているようだ。
さらに牛車が通れるとは思えない狭い箇所があったり、どう見ても折り返しが不可能に思える狭いV字ターンがあったり。
上部鉄道跡を知る筆者の見立てでは「ちょっと違うんじゃないかな?」という印象だった。
長年の経年変化によって地形も変わっている可能性もあり、何とも言えない部分もある。
しかし牛車道ではないとすると、緩やかな傾斜の言わばバイパスを作った意味もよくわからない。
重い荷物を荷車等で曳くため、もしくはご老人用に作られたのかもしれない。
この辺りは、更なる研究が必要なポイントだ。
9:44
すっかり自然に還った山肌に、不意に人工物が現れる。
近寄って見下ろしてみる。
何かの水路のよう。
石積みでかさ上げされた通路のうえに、整然と並んでいるのはレンガだ。
振り返って見上げてみると…
複雑に組まれた石とレンガ。
別子銅山の土木技術の高さは、こんなところにも垣間見える。
しかし長年の風雨は、この堅牢な設備をも破壊し、徐々に自然へと還している。
しばし見とれるが、先に進もう。
9:50
古い神社を思い起こさせる、石造りの階段を登る。
最初の倒木には驚いたものの、定期的に草刈り等の手入れが行われているであろうこの道は、とても歩きやすい。
整備に関わっておられる方々には、頭が下がる思いだ。
10:04
見事なレンガ造りの遺構が現れた。
水路の会所(かいしょ)と思われる。
山に沿って落ちてきたその流れは、ここで画面手前側に90度折れ曲がっている。
ちなみに道は向こう側に回り込んでいそうだが、すぐ行き止まりだ。
来た道を振り返ると…
スイッチバック状の道、下段左寄りに、水路の苔むしたレンガが顔を出しているのがお分かりいただけるだろうか。
そしてこの先で右に90度折れ曲がり、道をくぐり、先述斜面で見た水路へと続いているのである。
明治時代の見事な治水工事を間近で見られるポイントだ。
しかし見ての通り、手すりなどの安全設備は一切無い。
画面右側も崖である。
ここに限った話では無いが、安全には十分注意して探訪されたい。
なお、上段の道には後年に敷かれたであろうコンクリートの板が並んでいるのがわかる。
予告
入道してから1時間余り。
明治期に造られた生活道を堪能しながら進んだ我々の眼前に、
ある巨大遺構が姿を現します。
小躍りして喜ぶおっさん2人組。
(旧遠登志橋以外、これといった見どころは無いんだろう)
という事前の予想は、見事に外れることになります。
それは一体何なのか?
次回、明らかに。乞うご期待!!