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【アクセス】マイントピア別子(東平ゾーン)へ 明治期の道路を行く【後編】

別子鉱山鉄道 上部線の全線制覇

6年越しの決着に心躍らせていた決行前日、Y氏から連絡が入る。

「落石で通行止めになってるって。どうする?延期にする?」

マジで!?どうしよう。。

もう有休出しちゃってるし。てか、もう明日仕事行く気なんて無いよ。

みなさんこんにちは! しおかぜHobby のお時間です。

起点であるマイントピア別子 東平ゾーンへ車で向かうことができなくなった我々は

明治期に整備された道路を使って徒歩で向かうことにしたのでした。

急遽のB案として浮上したルートでしたが、見どころ満載。

そして今回の旅における、最大の遺構が姿を現します。

【前編】がまだの方は、こちら↓

【アクセス】マイントピア別子(東平ゾーン)へ 明治期の道路を行く【前編】マイントピア別子(東平ゾーン)へ向かう明治期の生活道路が残っているのをご存じでしょうか?別子鉱山鉄道上部線の廃線跡を歩く予定が、落石通行止めにより断念。代わりに向かう事になった、知られざるかつてのメインルートをご紹介。今回はその【前編】です。...

2023年4月1日

東平ゾーンへの通行路となる市道「河又~東平線」の通行止めは

解除されました!!

2022年3月19日から、

東平ゾーンへの通行路となる市道「河又~東平線」は

落石の影響により通行止めとなっており、車で向かうことが出来ません。

そのため、東平ゾーンは臨時休業中です。

(執筆時2022年7月下旬も継続中。詳細はこちら

つまり、この記事で紹介する明治期の生活道路が唯一のアクセス方法になります。

新道索道中継所 跡

10:08

「うわー、これは凄い!」

バディY氏と共に、思わず声を上げる。

旧遠登志橋を超える遺構が目の前に姿を現した。

東平から端出場へ銅鉱石を運んでいた、東端索道。

その中継所、「新道索道中継所」の遺構である。

見事なレンガ造りの建物を中心に、索道の基礎と思われる構造物や階段などが

しっかりと残っているのがわかる。

レンガ造りの建物は機械室で、内部には速度調整装置が収められていた。

曳索の運転速度は9km/h(秒速約2.5m)に調整されていたそうだ。

少し角度を変えて、全体を収めるべく広角で撮った写真がこちらである。

画面右方が東平、左方が端出場方面だ。

東平から端出場まで一直線で敷設することが出来なかったため、

東端索道はここで左斜めに4.75°折れ曲がる。そのための中継所だ。

到着した搬器は一旦曳索から離れ、レールに載り移る。

作業員が手押しで移動させ、下部の曳索へ噛ませて出発させていた。

画面手前には、その作業を行っていた建屋が左右方向に続いていたのだ。

自然の岩(画面右の黒いの)も利用しながら様々な構造物を造っているのが興味深い。

降りてみたい衝動に駆られるが、簡単に降りられそうに無いこと、

また落とし穴状に陥没しているような場所も見られるため、

今回は無理をしない事とした。

傍らには、現役当時の貴重な写真が展示されている。

「住友別子鉱業所新索道」

大きなものでは高さ30mにもなったという、

巨大な鉄塔(索道ポスト)が索道を支えているのがよくわかる。

ちょうどスキー場のゴンドラ(屋根は無いが)のような搬器も映っている。

これに約550kgの鉱石を積載していた。

こんな山奥にも産業近代化の営みがあったことに思いをはせる。

しかし最近入手した資料によると、この場所の写真ではないようだ。

索道ポストは、端出場から東平まで全部で26本あった。

端出場側から1番、2番…、東平索道場前が26番である。

(この空を搬器が飛んできてたんだな…)

(遥か東平から…)

東洋のマチュピチュと呼ばれる貯鉱庫。

その前にある索道場。

あの石造りの構造物と、ここがつながっていたわけだ。

もう一枚、中継所を捉えた写真も展示されていた。

「東平新道索道の切断?」

学が足りないせいか、最後の一文字はどうしても読めない。

それはさておき、なるほど現在の位置と比べてみる。

定点観測は、筆者の大好物である。

同じ場所の、新旧写真を並べて比較するアレだ。

しかし自然に還った別子の山は多くの植物で斜面を覆い隠し、その位置特定を拒んでくる。

同じアングルで見ようにも木々に遮られ、全体を見通すことも許されない。

レンガの切妻屋根の側面(三角の部分)とその横の岩が辛うじて見えていた。

それを頼りに写真と合わせると、黄色線の箇所なのだろうか。

あくまで筆者の想像であるが、この位置関係の可能性が高いと考えている。

ついには写真にある建物の足元、特徴的な石垣ですら判別することが出来なかった。

そしてこの写真に写っている索道ポストが、15番ポストである。

そしてこの次の丸尾という場所にある16番ポストまでは388mとやや距離の長い区間。

つまり前述の写真が ”この場所ではない” という根拠はそこにあるのだ。

後ろ髪を引かれる思いで、旧索道中継所を後にする。

東平まで、あとどれぐらいの距離があるのだろう。

手元に地図があるわけでもなく、実際のところよくわからない。

再び「道」を進む。

土木技術

10:22

別子の山は急峻である。

急斜面に石積みの擁壁を築き、わずかな平地を生み出す。

かの別子鉱山鉄道 上部線も、こうして線路を敷いていった。

しかしあちらの急峻さは、この比ではない。

10:23

画面左、切り立った崖の深さを表現しようにも、木々に遮られ上手くいかない。

電柱を除けば、明治期から何も変わらない「道」が眼前に続いている。

完成から100年以上、風雨にさらされ続けているにも関わらず、その威容は衰える事を知らない。

別子銅山を起源とする土木技術の高さには、驚かされるばかりだ。

10:30

光が入ってしまい、見にくいのが申し訳ないが、ここには治水工事の跡が見てとれる。

石積みの擁壁に、画面右上から流れてくる水を通すための四角い穴が開いているのがそれだ。

しかし長年の堆積物により、今では道の上を流れているであろう事は容易に想像できる。

10:34

ふと進行方向左、

木々の隙間から、新居浜の市街地と瀬戸内海が見えた。

改めて、別子の山深くまで踏み入れていることを認識する。

遠く小高い丘の中腹に、新居浜市清掃センターの煙突が見える。

10:39

道幅と高さを確保するため、岩盤を削っている。

壁面の色が特徴的な、

ここは言わば ”素掘りの半トンネル” といったところか。

この写真を見ていると前編で登場した「近道とまわり道」の謎について、

かの有名な「牛車道」ではないものの、今回のルート全線において、

荷車等も通行することができる「車道」として整備されているようにも感じる。

廃線の息吹

10:42

珍しく手摺りが設置されていたであろう箇所に出た。

「Yくん、レール!これレールだよ!!」

廃線ファンの筆者は思わず叫んでいた。

別子銅山でレールと言えば、別子鉱山鉄道である。

上部線で不要になったものを持ってきたのだろうか?

いや、第三通洞と日浦通洞内を走っていた “かご電車” のレールかも。

なんでも良い。かつて活躍していたレールに変わりないのだ!

ふとバディY氏との温度差に気付く(汗)

いかんいかん、また一人で暴走してしまった(笑)

この写真から、画面左下の谷の深さを(いくらか)感じていただけるかもしれない。

10:43

光の入り方が美しいこの写真は、筆者のお気に入りだ。

それに加え、別子鉱山鉄道 上部線を知る方であれば、アレとよく似た場所と気付くだろう。

尾根をカーブしながら切通しで抜ける。

その左手には岩が残っている…

そう、あの有名な写真だ。

蒸気機関車が出てきた所も切り通しだが、

その向かって左側、牛車道時代の切り通しと、僅かに残った岩。

全く別の場所だが、よく似てはいないだろうか。

工法が同じというだけでアツくなってしまう。

廃線ファンのサガなのだろう。

めがね橋

10:52

土と岩ばかりの路面に、突然レンガが現れる。

(ん!? これは、もしかして!)

横から覗き込んでみるが、よくわからない。

よく見える場所を探して少し戻ってみる。

写真中央。拡大すると…

そこにはレンガ造りのアーチ橋が!

ほんの小さな橋だが、ここにも明治期の土木技術が光っていた。

100年以上の時を超え、令和の世でも現役だ。

10:55

小女郎川が近い。

これまでは道よりもかなり低いところを流れていたが、

滝を使って一気に高度を稼いできたようだ。

分岐

11:00

東平ゾーン下方の分岐点(赤丸部)に至る。

直進すれば、東洋のマチュピチュを見上げる絶好のスポット、

索道場あたりに出られるようだ。

しかし我々は「道」を探訪している。

第三通洞方面に向かうことにした。

分岐を左折、小女郎川を渡る。

旧遠登志橋を渡ってからは小女郎川の西岸を南下してきたのだが、

これで東岸に戻ったことになる。

ここから第三通洞まで、約30分。

これまでの疲労のせいか、この30分がとてつもなく長く感じることになるのだった。

トラップ

11:06

朽ち果てた木の橋が現れる。

近づいてみると、

誰かが踏み抜いたであろう、大穴が開いていた。

もちろん明治期のものではない木橋だが、既にその天板は人の重さを支えられない。

怪我をされていないことを祈るのみだ。

我々は慎重に縦方向の丸太の上を踏み進む。

11:13

え!?

さっきの木橋を見た後に、これはキツい。

すでに目線は川底の迂回路を探していた。

結構な高さがあるし!

渡れるのか?

この時、画面左のレンガ造りの構造物を見た記憶がない。

それどころじゃなかったようだ。

木橋と対峙する。

先程のよりは幾分マシな感じではあるが、手摺りは使わないでおこう。

縦方向の丸太の位置を確認し、慎重に進む。

もちろん1人ずつ、だ。

忍び足で行けば、あまり体重がかからないような気がするのは何故だろう?

Y氏ともども、無事に渡り切った。

マチュピチュ

11:15

進行方向右手に、何やら見覚えのある構造物が見えた。

ズームしてみる。

マチュピチュ…

こんな角度から見たのは初めてだ。

時系列はズレるが、逆バージョンをここで示しておこう。

先程の撮影ポイントはこの画面内に入っているのだろうか?

見当もつかない…

あれ??

同じ場所から撮ったつもりが、これ、隣じゃない?左側がすぐ終わってるし。

今、気づいた(泣)

今度行く機会があったら、撮り直さなきゃ。

車で来られるようになってから…(笑)

11:20

苔むした倒木が行く手を遮る。

何年こうして横たわっているのだろう?

右手から滝が落ちる音が聞こえる。

音からして、かなり大きそうだ。

しかし木々に遮られ、その姿を見る事はできない。

到達

11:30

そしてついに、見慣れた場所に出た。

「なるほど、ここに出るんだね。」

マイントピア別子 東平ゾーン、

旧第三変電所下の小道だった。

旧第三変電所の下、一段高くなった小道がそれだ。

そういえば2016年3月、別子鉱山鉄道 上部線探訪時、

一本松停車場から下山すると画面右上からここに降りてくるのだが、

その時に、

(何だこの道は?)

(どこにつながってるんだろう?)

と奥に向かって少し進んで確認したことを思い出した。

図らずも、こちらの「道」は、6年越しに制覇できたわけだ。

現在地:赤丸

左赤線:第三通洞、右赤線:第三変電所

まとめ

「明治期に整備された生活道路」

(画面左下の「遠登志橋」から「現在地」の間)

それは確かに存在していました。

マイントピア別子 端出場ゾーンを出てちょうど3時間。

遠登志渓谷遊歩道入口から2時間30分。

東平ゾーン第三通洞前の広場に到達することができました。

遺構を堪能しながら、かつ写真を撮りながらの旅でしたので

通常より時間がかかったと思います。

別子銅山の土木技術の高さ、また明治期の人々の営みを感じながら

数々の遺構が間近に見られる。

近代化産業遺産ファン垂涎のニッチな旅となりました。

一般的な登山道よりも歩きやすい道ではありますが、

安全には十分注意のうえ探訪されてください。

なお今回の探訪でも誰一人、出会うことはありませんでした。

やはりバディは必須ですね(笑)

予告

それでは次回は「余韻編」として

東平ゾーンの状況と、普通の観光客は足を踏み入れない見どころ、

そして下山ルートについて紹介しようと思います。


今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

また次回の記事でお会いしましょう!

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