みなさんは「鹿森社宅(しかもりしゃたく)」をご存じでしょうか?
ピンと来た方、さては産業遺産マニアですね?(笑)
最盛期には276戸、約1,400の人々が生活していたという、
別子銅山史上、最大の社宅跡のことです。
急な山の斜面に建設された社宅には、総延長1,800mにも及ぶ石造りの階段があり、
下から見上げたその光景は、圧巻の一言…
みなさんこんにちは! しおかぜHobby のお時間です。
そんな巨大な遺構が、一般の方もよく利用する ”あの施設” から
わずか徒歩15分で行けるというのだから驚きです。
283年の歴史を持つ別子銅山の遺構の中でも、
比較的手軽に訪れることができ、かつこれ程の規模を誇る場所は他にありません。
愛媛県新居浜市。
旅の途中に、ふと立ち寄ることができる巨大遺構。
この秋、「全国旅行支援」を利用して、あなたも探訪してみませんか?
道の駅
2022年2月。
全くの別件からの帰り道、たまたま近くを通ることになった、筆者と親友Yくん。
そう、あのバディY氏である。
別子銅山が大好きな筆者には、断る理由は1ミリも無い。
向かう車中で、筆者は6年前の記憶を思い出す。
(鹿森があるな…)
別子鉱山鉄道 上部線を探訪した後、別子銅山熱がピークに達した筆者が
次に訪れたのが「鹿森社宅」だった。
こうして道の駅「マイントピア別子(端出場ゾーン)」に向かうことになったのだった。
採鉱本部
1690年(元禄3年)の開坑以来、65万トンの銅を産出した別子銅山。
1973年(昭和48年)の閉山に至るまでに、その採鉱本部は
「旧別子」~「東平(とうなる)」~「端出場(はでば)」
と移動してきた。
1915年(大正4年)の第四通洞の完成を機に開発が進んだ「端出場」は、
1930年(昭和5年)に採鉱本部が置かれ中心地となった。
この最後の採鉱本部が置かれた「端出場」こそが、我々が今向かっている
マイントピア別子、端出場ゾーンなのである。
鹿森社宅
鹿森社宅の建設は1916年(大正5年)7月から始まり、
小学校分教場(1年~3年生まで)、保育園や共同浴場なども整備されていた。
最盛期には300戸、約1,400の人々が生活していたというから驚きだ。
1つの社宅でこれほどの規模を持つものは、別子銅山の長い歴史の中でも
ここ鹿森以外には存在しない。
マイントピア別子の西方、明らかに植生が違う部分がお分かりいただけると思う。
この辺りが鹿森社宅跡だ。
後の植林により森に還したため、周囲と違っているのだろう。
しかも南北に長い碁盤の目の様子まで見て取れるではないか。
我々は今ここに向かっているのだ。
端出場貯鉱庫
道の駅「マイントピア別子」の玄関口、
端出場大橋を渡って右手の駐車場に車を停める。
その山手には巨大なコンクリート造りの貯鉱庫が。
端出場貯鉱庫
1917年(大正8年)2月完成の、鉱石を貯める施設。
高さ約15m、横幅約35m。
貯鉱庫の上には第四通洞から延びるレールが続き、
鉱石運搬車が到着、鉱石を上から落として貯める仕組みになっていた。
コンベアトンネル
2023年1月、新たな情報を基に取材に訪れた。
鹿森社宅へ向かう前に、注目していただきたい箇所がある。
それは、貯鉱庫を正面に見た、左下である。
広場の左端に、何やらトンネルの上部のようなものが
覗いているのがおわかりいただけるだろうか?
拡大してみると…
今では埋まってしまっているが、
これは紛れもなくトンネルの上部であることがわかる。
そう、これが貯鉱庫前にあった破砕場から、手選鉱場へと続く
コンベアベルト用のトンネル跡なのだ。
ではその出口は、どこにあるのだろうか?
ちょうど、売店「仲持茶屋」の裏側、
各種トロッコやダンピングカーが展示されている向こう側、
ぽっかりと口を開けているのが、それだ。
近づいてみよう。
入口とよく似た造りに見える。
長さは約30m、斜め上方へ抜けてきた出口である。
マイントピア別子を訪れる観光客の中でも、
この遺構の存在を知っている人は少ないのではないだろうか?
観光開発の波にのまれることなく、
令和の現代に生き残った貴重な産業遺産。
「近いのに見えない」
もの悲しさを感じた睦月の始めであった。
ここまで来たついでに鉱山観光列車の終端部を見ておこう。
つまりここは、別子鉱山鉄道 下部線の廃線跡だ。
(よ、よだれが止まらない…)
さて、いよいよ本題、鹿森社宅へと向かおう。
貯鉱庫前に戻る。
エントランス
端出場貯鉱庫の向かって右、階段を上がると小さく白い、
「鹿 森 →」の案内表示が。
ここから鹿森社宅へ向かうことが出来る。
駐車場を振り返る。奥には白く端出場大橋が見えている。
駐車場の手前、一段高くなったところが、実は別子鉱山鉄道 下部線の廃線跡だ。
第四通洞から始まり、延々と惣開(そうびらき)まで下部線跡と並走する、
抗水路のコンクリート製のフタがわずかに写っている。
筆者のよだれは、既に顎まで流れる勢いだ。
なお、後に出てくる突込トンネルを、下部線だとする向きもあるが、
それは間違いなので、ご注意願いたい。
そして写真中央には筆者の愛車、200系ハイエースが佇んでいる。
今は駐車場のこの場所には、昭和初期には集会場、郵便局、駐輪場などがあったようだ。
なお、この日のハイエースは純正ホイールにスタッドレスタイヤを履いている、
完全車検対応バージョンだ。
毎日何百という人が通勤したであろう、コンクリートで階段状に舗装された道である。
そのコンクリートを抱き込むように根を張る1本の木。
時の流れと、自然の力強さを感じずにはいられない。
近代化産業遺産探訪の魅力の1つだ。
廃線
直線状に積まれた石積み、それに上がる階段、そしてトンネルが見えてきた。
廃線ファンのみなさん、お待ちかね、
「貯鉱庫の上には第四通洞から延びるレールが続き…」と前述した、
その廃線跡の登場である。
筆者のよだれは…滝のごとく、である。
第四通洞から走ってきた鉱石運搬車(ダンピングカー)は、
この突込トンネルに突っ込み、スイッチバック。
貯鉱庫上の線路に入り、順に鉱石を落としていくことが出来るわけだ。
なのでこのトンネルは貫通していない。(と何かの書籍で読んだ気がする)
「旧国鉄信越本線 碓氷峠 熊ノ平信号場」を彷彿とさせる構造である。
(廃線ファンのあなたには、わかっていただけるでしょう。笑)
階段を上がって確認したい衝動に駆られるが、もう、いい大人なので控えておこう。
通勤道路は軌道敷をトンネルでアンダーパスしている。
「鹿森隧道」とでも書かれた銘板がはまっていたのだろうか、四角の凹みが確認できる。
道路トンネルを抜けると、廃線と突込トンネルがよく見える。
狭い平地に有効長を確保するために生まれた突込トンネル。
緩やかなカーブを描いたそれは、まさに廃線そのものだ。
その逆側(第四通洞方、貯鉱庫の上)も気になるところだが、
整備されており、往時の面影は残っていない。
文献によると、現在通路になっている部分を来たダンピングカーは、
突込トンネルでスイッチバック。
現在は畑となっている貯鉱庫上の線路に入り、鉱石を順に落としていき、
そのまま第四通洞方へ戻っていったようだ。
廃線を語り始めると、それだけで本記事が終わってしまいそうなので、
先を急ごう。
坂道
寒いが、木漏れ日が気持ちいい。
整備されていて大変歩きやすいその道は、軽いハイキングの感覚で訪れることが出来る。
しかし、かつては一部に設置されていたらしい、
手すりの類は、今では一切無いので十分注意されたい。
ここでも手すりの支柱にレールが使われている。
おそらくは第四通洞等の鉱石運搬車が走っていたレールを
再利用したものと思われる。
例えばJRのレールなどに比べると小型軽量であるから、
このような利用には重宝するのだろう。
所々、このように崩落して道幅が狭くなっている箇所もある。
探訪される際には足を踏み外さないよう、細心の注意をお願いしたい。
そういえば、今回は全く無かったが、2016年に家族で探訪した際には、
おびただしい数の、緑色のう○こが落ちていた。
見るからに出来立て新鮮なものも多い。しかも明らかに人の通る箇所を狙っている。
しかし、我々の周りにその犯人の気配は無かった。完全犯罪だ。
下山後よめかぜがそれを踏んでおり駐車場で大騒ぎ、のハプニングを思い出した。
細心の注意をお願いしたい(笑)。
山の斜面に2本の朽ちたパイプが確認できる。
これらは後に出てくる貯水槽とつながっていたようだ。
本人は自然に還ろうと頑張っているようだが、自然がそれを拒んでいる。
筆者の目には、そんな風に写った。
画面左に小さく白い案内表示が。
「鹿森索道終点」
なるほど、端出場からかなりの高低差があるため、
索道(貨物用ロープウェイ)で物資の上げ下ろしが行われていたようだ。
(でも、鹿森はまだ先だと思うけど…。ここまでなんだ。)
謎である。
「(後述する)生協近くまで索道が建設された」との情報もある。
となると、こちらが下端なのだろうか。
やはり謎である。
先程のパイプとつながっていたであろう、貯水槽がこれだ。
鹿森はもう少し上なので、これは中継点なのだろうか?
研究不足でよくわからないのが残念だ。
別子銅山の特徴的な石垣が見えてきたら、目指す場所はもうすぐだ。
なぜなら、斜面に平地を生み出すために築いているからに他ならない。
最下部
いよいよ鹿森社宅の最下部へ到着する。
意外にも広大なスペースが確保されている。
「奉 大正15年(1926年)5月1日」と刻まれた石が建っている。
名前は知らないが、神社関連でよく見るアレだ。
筆者の地元では祭りになると、これに縛られた幟(のぼり)がはためく。
立派な石碑とレリーフ。
鹿森社宅は多数の長屋で構成されているのがわかる。
小さくてわかりにくいが、1つの長屋に8~12軒ほどが連なっていたようだ。
現地には実際の写真も掲示されていた。
中央にV字を描く階段が見えるだろうか。
これが後ほど紹介するメインストリートだ。
定点観測
筆者の大好物、定点観測の時間が来た。
メインストリート下方、2本の階段が合流して下りてきた場所。
有名な写真が掲示されている。その階段は、天まで届く勢いだ。
同じアングルを探すが、左の木が邪魔して上手くいかない。
廃墟然としたこの場所にも、64年前には明らかに「人々の生活」が存在していた。
今にも子供たちの笑い声が聞こえてきそうだ。
そんなところに、何とも言えない浪漫を感じてしまうのだった。
その子供たちも、今ではご高齢だろう。
なんというか、時の流れ。そのものが、ここにはある。
メインストリート
前述の ”V字を描く階段” が合流する場所がここだ。
長さ約200m、高低差約80メートルに及ぶ2本の階段が分かれている。
この少し上方、階段に挟まれた場所には生協があった。
この辺りが、鹿森社宅の中心部である。
これらの石垣にはセメント等、一切使用していないという。
ここに限らず、別子銅山の遺構全般に言えることだが、
その土木技術の高さには驚かされるばかりだ。
旧別子の産業遺産群、東平、また上部鉄道跡にしても、
100年をゆうに超える現代に、しっかりとその威容を保っているのだ。
なお、6年前に訪れた時には、
右側の階段は、とても歩ける状態ではなかった。
この間に整備が進んだことがわかる。
後付けされたであろう、コンクリート製の治水工事の跡だ。
苔の生え方が周囲と違っている。
奥にも、形は違えど同様の設備が見てとれる。
こうして改良を加えながら半世紀以上もの間、ここで人々は生活していたのである。
入浴
メインストリートの左手に「浴場跡」が現れる。
最盛期には1400人程が汗を流した共同浴場である。
使用できたのは16:00~20:00の4時間だけ。
今のように、毎日入浴する習慣は無かったかもしれないが、
その混雑ぶりは想像を絶するものだったに違いない。
意外に小さい浴槽。
そして洗い場にカランが無い。
てことは、浴槽のお湯を洗面器で、ということか?
ここに700人…、しかも男湯は坑夫のお父さんたち…
是非とも一番風呂を狙いたいのは、筆者だけではないはずだ(笑)
振り返ると、バディY氏が入浴中だった。
温泉好きな彼は、その衝動を抑えられなかった様子。
しかも入っているのは女湯だ。警察に通報しておこう(笑)
(注:女湯は筆者の勝手な想像)
人が座ると、浴槽の小ささがさらに際立つ。
バディY氏が座る浴槽にある給水用と思われるパイプからも
時の流れを感じる。
今では植林された木々が密集している、共同浴場の奥、
つまり南隣には、鹿森社宅唯一の2階建ての建物があった。
戦中には「倶楽部」があり、
戦後には1階に保育所、2階は集会所として使われたそうだ。
娯楽施設として、また選挙の投票所等として機能していた。
橋
中央階段には、現存する唯一の橋が架かっている。
様々な角度で撮ってみたので、あなたにもご堪能いただきたい。
当初、配給所は端出場にしかなかった。
鹿森の住民たちは、会社に配給所の設置を頼んだが断られたため、
各々1,000円を出し合い「生協」をつくったそうだ。
中央階段
さらに階段を登ってみる。
先行するバディY氏が小さく見える。
頂上までは、まだ少しありそうだ。
同じ場所で振り返ると…
先程の橋が見えている。
直線200m、高低差約80メートルに及ぶ階段は伊達じゃない。
両サイドの石垣の高さを含め、
鹿森社宅の急峻な地形を感じていただけるだろう。
そこから北へ移動すると、V字をなすもう1本の階段がある。
こちらは直線ではなく、やや折れ曲がっているのがわかる。
このアングルに、さらに趣を感じるのは筆者だけではないはずだ。
中央階段の直線も圧巻だったが、こちらも素晴らしい。
石垣と階段が織りなすハーモニー。 実に、美しい。
(ちょっと何言ってんのかわかんない… 笑)
生活
各フロア?には、長屋状の社宅が建っていた。
人々が生活した痕跡を覗いてみよう。
ここで、ふと気付く。
そういえば、トイレの類を見ていない。
「各フロア?の端に共同トイレがあった」という記述も読んだが、
その処理は一体どうしていたのだろう。
下水設備はもちろん、汲み取りも難しいと考えられる。
ということは…
今までいくつか見てきた治水工事のうち一部は「それ」だったのかもしれない。
側溝を流れる、う○○… 深く考えないようにしておこう。
(あくまで筆者の勝手な推測である)
真相をご存じの方、ぜひお教えいただきたい。
神社
鹿森の地名の由来には、以下のような話があるそうだ。
別子銅山を語る会の記録によると、寛政の頃、この地方の滝本家は中屋敷というところに居て、多くの山林と山畑を持っていた。甚右衛門が組頭になると殺生を禁じ、部落では、猪垣を作り、おとし穴を作り、鐘や太鼓でハヤシ、猪の防禦(ぼうぎょ)につとめた。
彼が50才、寛永12年(1800年)の11月の終わりごろ、日課の山や畑の巡視の時、突然木々の間に異様な物を発見した。動かない猪である。よく調べてみると、いのししの岩であった。
これより、「ししもり」「しし岩」といい先祖代々射止めた猪の魂をなぐさめに「しし祭り」を行い、豊年を祈った、とある。
この地に、住友社宅が建設され、鹿森と書き「しかもり」といい、鹿森(しかもり)社宅、鹿森(しかもり)ダム、と呼んでいるが角野地域の人は、今でも鹿森のことを「ししもり」と呼ぶ人が多い。
なるほど、ここは「ししもり」なのか…
その「しし岩」を祀った神社がこちらだ。
後に「しし岩」は別の場所にある、という情報を得ました。
真相は調査のうえ、追って報告します。
ちなみに「別子」の由来は以下の通り。
別子の名の起こりは、”意伊古乃別(おいこのわけ)君” や、”竜古乃別(たつこのわけ)君” が治めていた、その ”別(わけ)” の子孫のいた所であるから別子という名が出来たといわれている。
「地名の由来 新居浜」 なかなか興味深い資料である。
学校
東平小学校 鹿森分教場の正門。
今回の探訪では、なぜか見つける事が出来なかった。
散々探したあげく、筆者とバディY氏の間では
「無くなっている。」「派出場水力発電所に展示されるのでは?」
という結論に達したのだが、
家に帰ってからネット検索してみると、木製の表札こそ外れていたりするものの、
現存しているではないか!
そういえば、最も南側の階段に行かなかった気がする。
そりゃ見つけられないはずだ(泣)
仕方ないので前回、2016年に訪問した際の写真を掲載しておこう。
東平小学校 鹿森分教場
1917年(大正6年)惣開尋常高等小学校の分教場として開校。
最盛期の昭和20年台には、在校生徒数109名を記録している。
1~3年生までが通い、4年生からは山根の角野小学校に編入していた。
遺構
その他の遺構を3点掲載しておく。
いずれも何かしらの液体に関するもののようだが、
その用途は… 正直よくわからない。
まとめ
いかがだったでしょうか?
道の駅から徒歩15分で行ける、大規模産業遺産、
別子銅山 鹿森社宅跡 をご紹介しました。
こんなにもアクセスが良い本格的遺構は、別子銅山にはここ以外ありません。
6年ぶりに訪れましたが、その威容は全く衰える事を知りません。
およそ半世紀前まであった人々の営みを確かに感じる事が出来ました。
それと同時に、見学しやすいよう定期的に
管理にあたっておられる関係者の方々には、頭が下がる思いがしました。
急遽思い立って寄った関係上、研究不足感は否めませんでしたが、
本記事を執筆する中で出会った、
1998年 橋本久美子氏 著
2011年 竹原信也氏 著
という一級品の資料たちが筆者を助けてくれました。
興味のある方は、リンクから是非読んでみてください。
これを読んで新たな発見もありましたので、また取材に訪れ、
本記事に加筆、もしくは新たな記事にしていこうと思っています。
「定点観測しまくり大会 in 東平」と合わせて、楽しみです!
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
また次回の記事でお会いしましょう!